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「ヒナンミンノコ」(避難民の子)

1:K.Murano :

2022/05/15 (Sun) 22:51:51

 先の一連の投稿で、沼野恭子著『ロシア文学の食卓』(ちくま文庫、2022年5月10日第1刷)末尾の「文献案内」に貝沼一郎先生の翻訳作品が挙げられていること、そして晩年の先生が『えうゐ』誌に翻訳を連載なさっていたことに触れた。

 『えうゐ』誌とは1970年代に北大と札大の先生方が中心となって始めたものである。札大ロシア語学科専任からは貝沼一郎(S.T.アクサーコフ)、相馬守胤(サルトィコフ=シチェドリン)、渡辺雅司(ピーサレフ)の諸先生が参加した。(当時、北大の錚々たる先生がたが札大ロシア語学科で非常勤として教鞭を執られていた)。

 1972年に札幌を離れた詩人の鷲巣繁男(1915-1982)の詩が『えうゐ』に載っていたのを覚えている。
 時節柄(地球上の戦争はロシア軍のウクライナ侵攻ばかりではないが)、鷲巣繁男著『呪法と変容』(1972年、竹内書店)所収の「放浪と幻化」という文章から少しばかり引用しておきたい。

 [ ]は引用者の付記。適当に行間を開けた。

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 わたしは関東大地震[1923.9.1]で母や幼弟を喪い、他の弟たちや、傷ついた父と共に暫く神戸の伯父の家に寄宿し、小学校へ通っていた。ほぼ四十九年の昔のことであるが、わたしは毎日、登下校の道々、悪童どもに石を投げられ、あざけられたのであった。

 わたしは亡き母の実家である農家に一時避難した時貰ったただ一枚の女の子用のネルの着物を着て、袴も勿論なしに学校へ通ったのであるが、それは一目にして当時その土地にも流入していた避難民の児童であることを表わしていた。罵声はきまって「ヒナンミンノコ」であった。

 わたしは唯一人わたしを毎日かばって登下校を護ってくれた級長の子を憶い出す。わたしには今日でも、その少年がこの世ならぬ存在のように光輝いて見えるのである。名も忘れた遠い昔のことであるのに、その少年の顔と声音は永遠の姿で今もありありとわたしを導いてくれるのである。彼は唇を真一文字に結び、雨のように降ってくる石つぶての楯となりつつ、泣きじゃくるわたしを励まし、悪童たる同級生らを制しつつ叱咤しつつ道を歩いたのである。この憶い出は今でもわたしを揺がして止まない。

 或る日伯母はわたしを連れて買い物に出たついでに川のほとりの一部落を指さし「あれは部落だよ」と言った。わたし自身疎外され、はじかれ、拒否されていたに拘らず、それは理解しがたいことであった。伯母は温和な人であったが、その伯母でさえ、差別ということに疑問を抱いていなかったようである。

 いわれない差別、迫害、そこでは「疎外」などということばは何とよそよそしく響くことであろう。わたしはふと、戦場で、家を焼かれ流浪していく多くの他国民を見てきたことを思い出す。彼等にとって、このわたしも亦、悪鬼の一員であったに違いない。人間の悲惨について、━━人間が悲惨の意識から遠ざかることの何という傲慢なことであるのであろう。

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 鷲巣繁男は日中戦争での日本軍の「南京攻略作戦」に無線通信兵として参戦している。
2:粕谷隆夫 :

2022/05/16 (Mon) 08:05:47

https://bbs2.fc2.com//bbs/img/_881100/881043/full/881043_1652655947.jpg  更科源蔵は書いている。

 戦後間もない、まだすべてが混乱の最中にあったとき、北海道の天売島海岸に、樺太からの紙を積んだ輸送船が、岩礁に乗りあげて、積荷の印刷用紙が薪のように、海岸に積み上げられているという報道に、印刷用紙に飢えていた東京の出版社が、怒濤のように札幌に進出して来た。
 そのとき鷲巣君は出版元の青磁社の会計担当者で、詩人というよりも、俳人として(後略)。

 この号に、貝沼先生は、S・T・アクサーコフ「19世紀初頭のロシア演劇界と名優シゥシェーリンの思い出」を訳出しています。


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