「水源池」6号に作品追加 - Himagine吉澤
2024/05/16 (Thu) 00:33:05
「水源地」第6号に作品1本(『【回想】札大、北方領土取材、他』……山谷賢量)を追加しました。
なお、山谷賢量氏は札幌大学外国語学部ロシア語学科第1期生(1971年3月卒)。元・北海道新聞記者。
Re: 別途、連絡しました - K.Murano
2024/05/16 (Thu) 01:31:37
校正等で不備があります。別途、メールでご連絡しました。ご覧ください。
Re: 「水源池」6号に作品追加 - 粕谷隆夫
2024/05/16 (Thu) 07:18:13
札大露語一期生の山谷さんの文章を一気に読了しました。「懐かしい」。最後に乾杯したのは、東京で相馬・渡辺両先生を囲んでの懇親会でした。山谷さんは、戦後はじめて国後島(すなわち北方領土)へ足を踏み入れた西側記者でしたか。
山谷さんは、1971年3月に卒業。小生は、1972年4月に入学。サッポロ冬季オリンピックが無事に終了した時でした。「すげえな、この地下鉄南北線。タイヤの地下鉄だぜ」。山谷さんが地下鉄工事でツルハシをふるっていたことを初めて知りました。
大学の図書館のロシア・ソ連文献の充実に貢献した佐藤司書課長とのお付き合いで、「ロシア語のシンタスクの本」の話も面白かったです。
たしかに当時から、北海道の諸都市が、ソ連との諸都市と交流が盛んだった背景もわかりました。必要だったのですね。また、生まれたてのロシア語学科の卒業生たちがどう就職するかの雰囲気も懐かしかったです。
いやはや歳月がどんどん飛び去っていく皮膚感覚を味わっている今日この頃です。
Re: 公開保留中 - Himagine吉澤
2024/05/16 (Thu) 08:26:39
この作品は、現在公開保留中です。
Re: 公開再開 - Himagine吉澤
2024/05/16 (Thu) 13:19:16
HP改修が済み、公開は再開されました。
Re: 高崎徹先生と小林多喜二、他 - K.Murano
2024/05/16 (Thu) 21:29:02
今回の山谷氏(札大一期生)の話で私が一番面白かったのは、高崎徹先生と小林多喜二(1903.12.1-1933.2.20)との小樽での交友のくだりです。
札大開学(1967=昭42)当時のロシア語学科の専任(自室あり)は高崎徹、新田実、菱沼圭介、藤井一行の四先生でしたが、高崎先生については、ガルシンの翻訳があるのは知っていましたが、それ以外のことはまるで知りませんでした。
それで今回ネットで調べてみましたが、経済学者の倉田稔氏(1941年生、小樽商科大学名誉教授)の「大正終わりの多喜二」での記事以外、ロシア文学者の「高崎徹」の伝記的事項は、皆目つかめませんでした。
そういう意味でも、今回の山谷氏の談話は貴重なものだ、と思います。
札大ロシア語学科の初期の先生というと、非常勤で方波見雅夫先生がおられ、我々七期生もその「ロシア一般史」の授業を受けました。
そのことで別途メールで山谷氏に質問したところ、雅夫先生の兄上が方波見康雄先生であることが判明しました。本年1月藤原書店から(97歳!で)『医療とは何か 音・科学・そして他者性』を上梓された北海道奈井江町のお医者さんです。
山谷氏の話では、その弟の雅夫先生の方はもともとは北海道庁の労働経済関係の研究室に所属していたそうです。
「満州帰り」の菱沼先生といい、初期の頃の札大ロシア語学科には、ユニークな先生方が教鞭を執られていたものだ、とあらためて思いました。
ある親子の話(天江喜七郎氏のメールから) - K.Murano
2024/05/14 (Tue) 20:21:14
この前、「水源地」6号アップ(先月)のことを知らせる一斉メールを友人知人に出し、P.S.として以下の文章をも追加しておきました。
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最近、ひょんなことで、その昔、内藤操先生(筆名・内村剛介)がロシア人女性数名との会合の席で、こんなことを洩らしていた、と知りました。先生はごく短く伝えただけで、その場のロシア人女性たちは誰一人、問い返さなかったので、詳細は不明ですが、要は、シベリアで「ロシア女性たちに助けられた」という話です。
━━「シベリアのラーゲリ(強制収容所)の鉄条網の柵のそばに近隣の農家などのロシア人女性たちが集まって、柵越しに口汚い言葉で関東軍兵士などの日本人抑留者を罵りながら、「石」を盛んに投げてきた。中てられたりしたが、よくみるとなんとジャガイモのタマだった。監視兵たちは「石」だと信じ込んでいる。だから何も言わない。彼女たちのおかげで我々は生き延びた・・・。」
「石」(実はジャガイモ)を投げつける際、ロシア人女性たちは「ナチスの仲間め」とか「帝国主義者どもめ」とかその他もっと口汚い罵詈雑言をも浴びせたことでしょう。ジャガイモへのカモフラージュとして。
私は、このエピソードを耳にして、同じ内藤先生の以下の談話を思い起こしました(この談話の方はここでは略します。本ブログ欄キイワード検索で「外村史郎」と入れると出てきます。初出は、1970年代の『文藝春秋』に載ったものです)。
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その後、東洋文化研究会の細川呉港氏から天江喜七郎氏からのお便りの紹介がありました。その内容に感動しました。以下、天江氏(元・在ウクライナ大使)の文章を引用します。
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村野さんの心温まる原稿を拝見しました。
シベリア抑留体験記はほとんどがロシア監視兵の非人間的態度を批判的に取り上げていますが、そればかりではなかったようです。
20年前のことですが、大阪のウクライナ名誉領事に西川さんという方がおりました。道頓堀界隈に不動産を所有して手広い商売を行ってました。
夜になるとキンキラキンのネオン街に早変わりする地域で、在京ウクライナ大使館は何故その様な商売の人物を名誉領事に任命したのか、当初は疑問に感じました。
しかし、西川さんに実際お会いするとその疑問は雲散霧消しました。穏やかで飾らない人格円満な方であるのは直ぐに分かりました。
以下は西川さんから聞いた話です。
━━ 西川さんは少年兵として満州に駐屯中に終戦となり、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留されました。まだ10代の伸び盛りで収容所生活は耐えられない程酷いものでしたが、偶々、捕虜収容所の所長が交代して新任の所長が着任すると、西川少年は所長の家の下男として子供の世話から家事手伝いをするよう命ぜられます。
言葉が通じないので初めは苦労したようですが、所長夫婦は西川少年に同情して息子のように可愛がってくれたとのことです。その所長夫婦はウクライナ人でした。
また所長は西川少年兵の刑期を短縮して5年後には帰国できたと話してくれました。
西川さんは帰国後がむしゃらに働き大阪で財を為しました。他方、収容所所長の恩を忘れず、50年以上経過した頃にやっと本人を見つけ出し夫妻と家族を日本に招待しました。
西川さんの恩返しはこれで終わりませんでした。
西川さんは息子さんをロシアに留学させモスクワで商売をさせます。ソ連崩壊後の大変な時期に、息子はヨーロッパから食品を輸入してロシア国内で販売してかなりの利益を上げました。
西川さんは息子に対し、国外ではなくロシアの食糧を買って販売することで、地元経済に寄与するよう強く指導します。
努力の甲斐あって、息子さんはモスクワでスーパーマーケットを数軒経営するほどに商売が繁盛し、ロシアの農業に寄与したことでロシア政府から表彰されました。
西川さんは15年ほど前に逝去されましたが、シベリア抑留の経験を前向きに捉えて、素晴らしい人生を歩まれたと思います。
天江喜七郎 拝
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「水源地」6号に作品追加 - Himagine吉澤
2024/05/09 (Thu) 01:31:04
「水源池」第6号に作品1本(『私のバレエ人生とロシアへの想い』……鈴木未央)追加しました。
鈴木未央さんは札幌市出身のバレエ・ダンサーで、日本におけるキャラクターダンスの第一人者。第5号に掲載した橋元結花さんの師匠にあたる方で、第7号にも書いてくださるよう頼んであります。
Re: 久しぶりに紅茶を - 粕谷隆夫
2024/05/09 (Thu) 07:29:30
いつも朝の6時前に会社に存在しています。今日は木曜日なので、コンビニのアルバイトの女の子から「週刊新潮・18号」を受け取りました。
談話室の吉沢編集長の文を読み、「あれ、」となりました。さっそく、『私のバレイ人生とロシアへの想い」(鈴木美央さん)をゆっくり読み、さらに『第二の故郷・ノボォシビルスク』(橋元結花さん)を再読しました。挿絵や写真も美しく、しばらくボ~としていました。
黒パンはいらないが、熱い甘い紅茶が飲みたくなり、会社の自動販売機へ行くと、ホットはすべて無くなり、すべてクール。残念!
Re: ダーチャ - K.Murano
2024/05/09 (Thu) 20:20:54
鈴木さんの文章でとくに(私にとって)おもしろかったのは、ダーチャ(「別荘」)のくだりでした。大自然のなかのロシアの農耕文化とお風呂文化を体験なさったのは羨ましいかぎりです。
本欄でも、ロシアでの生活&労働経験豊富な美水正一氏が、もうだいぶ以前に、こう書いていました。
「当時[1980年代なかば]の男たちがどうしても飲みたければお互いの家を行き来するか、郊外の別荘(ダーチャ)にお互いを招待しあって飲みました。別荘と言ってもピンキリですが、うちの事務所の運転手クラスでもモスクワ郊外に別荘を持ち、土日は家庭菜園にいそしんでいました。モスクワのサラリーマンが仕事帰りに街の居酒屋で飲むとしても、せいぜい金曜の夜くらいでしょうか。」
ロシアのダーチャには、農耕、お風呂のほかに、さらに、飲酒文化も、からまっているわけです。
復活祭 (Пасха / Easter) - K.Murano
2024/05/06 (Mon) 21:32:14
昨日は正教(東方キリスト教)の復活祭でした。いちもは4月中が多いのですが、今年は「子供の日」。
東京では、日本ハリストス正教会のニコライ堂(JR御茶ノ水駅近く)と、目黒区にあるロシア正教会(http://www.sam.hi-ho.ne.jp/podvorie/general/jp/index.htm)とで、奉神礼(богослужение)が執り行われました。
千葉県の自然豊かな所にある正教の修道院の教会には、本日、多くの信者が集まり、「ハリストス復活!」「実に復活!」と挨拶し合いました。Христос воскресе! -- Воистине воскресе!
もうずいぶん以前のことですが、戦前のハルビンでお役人をやっていたH先生(日本人)と共に御茶ノ水のニコライ堂を訪問したことがありました。その時、お堂に入る際に(キリスト教信徒ではない)H先生が胸の前で十字をきるのを見て驚いた私は、あとになって、なぜ十字をきられたのか、と質問しました。
明治生まれの先生はただ一言、「それが礼儀だ」。
Re: 正誤表 / わが妄想 - K.Murano
2024/05/06 (Mon) 21:44:43
上記一行目:
(誤) いちもは4月中が多い・・・
(正) いつもは4月中が多い・・・
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キリストが復活して今の世界の人々のありさまを眺めたら何を思うのか。どんな行動を示すか。
トルストイ「戦争と平和」のピエールみたいに、戦場(まずはウクライナ)を彷徨するのか。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の場面のように、終始、沈黙を守るか。
Re: 我が妄想は - Himagine吉澤
2024/05/08 (Wed) 11:35:29
妄想は正誤表にありと私は観た。
(誤)いちもは……
(正)いつもは……
こう並べて眺めていると、ある単語が思い浮かびます。――これが「我が妄想」です。(蛇足ですが、つい……)
トド打ちの名人 - 粕谷隆夫
2024/05/06 (Mon) 08:32:22
「ウム、昭和のパンチが最近多いな」「あなたも馬齢を重ねたのよ、才能がない平和を楽しんだら」。まあ、夫婦漫才ですかね。
あの二つの野外演劇団は、若き日の思い出です。唐十郎を最近目にしたのは、『北の国から/2002遺言』。娘が、この『北の国から』DVDシリーズを誕生日プレゼント(?)でくれたのかな。羅臼のトド打ち名人の役をやっていましたが、さすが強烈でしたね。
女房は下北産ですので、帰郷するとき三沢市を通る。必ず寺山修司記念館によりますが、入館した途端、寺山ワールドの世界。
「しかし明治も昭和も遠くになりにけりだな」。「秋田の7期生のSさんから送られてきた銘酒、まだ残っているわよ」。もう、周囲は躑躅だらけです。
山つつじ 照る只中に 田を墾く (飯田龍太)
95歳の奥田氏の講演会のご案内 - K.Murano
2024/05/05 (Sun) 11:41:57
札幌大学ロシア語学科の(故)深水明美先生とハルビン学院で同期の奥田哲夫氏(95歳)の講演会があります。以下、主催者「東洋文化研究会」からのメールでの案内をそのまま貼り付けました。
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東洋文化研究会5月の例会のお知らせです。
ここのところご高齢でなかなかお話を聞けない方を毎月集中的にお話を聞いていますが、ー5月の例会は18日(土曜日)午後1時から、元ハルピン学院の最後の生徒となった26期生の奥田哲夫さんのお話を伺います。
奥田さんは昭和3年生まれ、95歳。奉天で中学校を卒業後、ハルピン学院に。昭和20年4月に入学して、8月に終戦。近くの満洲飛行機の工場で、勤労奉仕が多かったと言います。もちろんロシア語と徳富蘇峰の「思想」の授業も。
終戦時は、学院は、いろいろな「悲劇」もありましたが奥田さんは無事新京から葫蘆島をへて帰国されました。2度と聞けない貴重なお話ですから、ぜひご参加ください。
★ 場所は、新橋1−15−5国際善隣協会(会館)5階会議室です。午後1時から。
★ また希望者は4時30分から近くの新橋亭(しんきょうてい)で会食(3000円強)。こちらは事前に必ず事務局までお申込みください。
またこのお知らせは、恵雅堂にあるハルピン学院事務所から、同窓会の皆さんにもお知らせしています。
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関心のある方は、上記「東洋文化研究会」幹事の細川呉港氏(著述家、集英社元編集者)の以下のメルアドへご連絡ください。
→ hosokawagokoh@ybb.ne.jp
深川散歩 - Himagine吉澤
2024/05/03 (Fri) 21:53:03
せっかくの連休だから、何処かへ気晴らしに行きたいと家内が言うので、思い立って深川に行ってきた。
まずは清澄白河駅へ。そこから深川資料館通りを抜けて東京都現代美術館に向かい美術館見学。その後木場公園を通って仙台堀川沿いの道を西に進み、木更木橋近くのブルー・ボトル・コーヒーに立ち寄って、最後に深川不動にお参りし、門前仲町から帰ってきたという次第。
現代美術館は、休日にもかかわらず来館者がごく僅かで閑散としており、ゆっくりと作品を鑑賞することができた。おまけに東京都の美術館だから入館料も安い。あれは穴場だな。むしろブルー・ボトル・コーヒーの方が店の前に長い行列ができていて混雑していた。店内で飲食するには1時間待ちだと言われた。
今日はあまり暑くもなく、空気も乾いていて気持ちよかった。たまには都心を散歩するのも楽しいものだ。
Re: 墨堤の花見 - 粕谷隆夫
2024/05/05 (Sun) 08:16:38
今年も墨堤の満開桜を見損なった。荷風先生の足跡を求めて、北千住から東武線に乗車。「東向島なんて駅名にしやがって」と舌打ちして終点浅草駅。
真っすぐ神谷バーへ行くと、なんと店に入れない。「どうなっているんですか?」「見ての通りです」。しかし、ここは日本か。
Re: 深川散歩 - 草野義
2024/05/05 (Sun) 16:03:56
東京都現代美術館は、”分かりにくいと言われる現代美術”を紹介して来た貴重な美術館です。
建築は新しいデザインで展示室は、広くて明るく見やすいですね、ただ交通の便があまりよくないのが残念です。
ポピュラーな企画展では来館者が多くて予約が必要になる時もありますが、所蔵作品展やあまりポピュラーじゃない企画展では、来館者が少ない事が美術館側では困っているようです。ポピュラーでない現代美術を紹介することが、大きな目標ですから矛盾する2つのことを両立させるのは大変なようです。
気が付いてみたら最近行っていませんが、お気に入りの美術館の1つです。
あまり混んでいそうもない時また出かけたいですね。
Re: 東京都現代美術館 - Himagine吉澤
2024/05/05 (Sun) 23:18:05
確かに、東京都現代美術館は交通の便がよくないですね。いちばん近い清澄白河駅からでも徒歩10分ほど。でも、私の家からだと、西新井駅から電車で1本、乗り換えなしで清澄白河に行けるんですよ。
実は最後に勤めた会社が美術館の近くにあり、9年間通いましたから、周辺の地理はよくわかっており、散歩をするにはよいところだと思っています。
美術館ももちろん素晴らしい。今回初めて行きましたが、とても気に入りました。
今回は家内が一緒でしたので、東京海洋大学(旧東京商船大学&東京水産大学)のある越中島の方まで行けなかったのが残念でした。
京都の喫茶店から「都はるみ」へ - K.Murano
2024/05/02 (Thu) 22:42:25
住んでいる所から歩いて相当に遠い(新刊)書店で以下の文庫を購入した。二か月ほど以前のことだ。
――『喫茶店文学傑作選集』(林哲夫編、中公文庫、2023.9.25初版発行)。
裏面のカバーに、「28篇の選び抜かれた短編小説・エッセイなどから、明治以来の喫茶店文化の神髄に触れる。」と刷り込まれていた。
28篇の著者は以下(★印は女性)。
―― 夏目漱石、森茉莉(★)、水野仙子(★)、谷崎精二、村山槐多、中戸川吉二、浅見淵、北園克衛、植草甚一、戸川秋骨、田村泰次郎、中原中也、小山清、安田武、澁澤龍彦、埴谷雄高、戸川エマ(★)、伊達得夫、山崎朋子(★)、野呂邦暢、洲之内徹、高平哲郎、平岡正明、小野十三郎、常盤新平、吉村昭、鷹野隆大、山田稔。
ご覧の通り、★は4つしかない。これが第一の不満。第二の不満は、喫茶店で働く人自身による文章がなかったことだ。経営者が書いたものも、ない(こちらの記憶違いはありうるけれど)。
それら28篇で(私にとって)一番けったいだった文章は「都はるみが露出してきた」(平岡正明)である。たしかに京都の喫茶店に言及してはいる。だが、相当な迫力で、都はるみ(京都の西陣の出身、父はコーリアン)を登場させているのだ。頁の中ではるみの歌声ががんがんと流れている印象を抱いた。
こんな描写がある。
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彼女〔都はるみ〕の舞台はすごいものだ。絶叫するまでに彼女が声をはりあげる時には、のけぞらず、逆に、前傾姿勢をとり、燃える杭木がかしいで倒れていくように歌う。すると小柄な身体が、ワンワンというほど唸りをあげる。
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この叙述に(TV見ただけの私であっても)異論はないが、実際にその舞台を見たわが母いわく、舞台の右から左へ、左から右へと、あの振袖のキモノ姿で、あの足の運び・あの裾さばきを駆使しながら、軽快に飛ぶ動いていく、その姿にこそ驚かされたし魅了された、という。歌よりも足元に「目」を奪われた、ということだ。圧倒的多数の他の演歌歌手には真似できないパフォーマンス、と言えるのではないか。
都はるみ、といえば、『渇水』の著者:河林満(1950-2008)の「師匠」中上健次(1946-1992)に『天の歌 小説 都はるみ』(毎日新聞社、1987.11.30発行)という作品がある。
そこに、こんな描写がある。
(中上健次は、「最後の」ワンマンショーでこの「小説」を締めくくったが、現実には、都はるみは復活し、21世紀になってから「退場」した。去り行くっ前に、青森の野外舞台では、ロックバンドの演奏でキモノ姿で激しいロックンロール調にアレンジした持ち歌と「足技」の動きとを披露した。私はそれをネットで見て、「真っ赤な太陽」を唄ったミニスカート姿の美空ひばりをなぜか思い出した。
〔以下の引用、適当に行間あける〕。
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〔上略〕額にか、胸にか〔、〕ついた転生の大歌手の徴〔しるし〕を甘受して生き直せ。
月並みな歌手の青春を羨やむのはよいが、月並みをなぞって何が面白かろう。普通の女の一生を羨やむのは当然だが、蓮の花がくちなしの花になろう、朝顔になろうとしてみてどうなろう。ファンは叫んでいた。
ファンは叫んでいた。普通の女、普通の男であるファンの一人一人は、自分が自分の一生をしか送りようがなく、十把ひとからげに普通と呼ばれる人生なぞ生きてはいないのを知っている。
ファンの一人一人は、春美が徴つきの歌手だから一層、徴に苦しみ、徴に泣くのを知っていた。徴こそ春美の歌が万人の心を揺さぶり、打ち、どんな固い心の扉でも開けてしまう力だった。春美にすれば何でもない歌だが、聴く者は涙滂沱(ぼうだ)となる。
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今年になって、(ネットで見たが)名だたる演歌歌手が多く集まり、<都はるみ特集>をやっていた(TV番組でか)。その中で、或る女性歌手が「はるみちゃあん、かえってきてえ」とラブコールを送った。
私はその声音に違和感を覚えた。ひっそりと暮らしている(暮らしたい)「ふつうのおばさん」に対して、そうした誘いの言葉はどうなのか、と思ったのである。
あの足の運び、あの裾さばきは、いまの「ふつうのおばさん」には、無理、というものだ。「都はるみ」が再々登場したら、上記の平岡正明のいう「前傾姿勢」は可能だろうが、もはや、彼女に「足技」(あしわざ)を要求するのは、酷(こく)というものだ、ラブコールは不要だろう。
Re: さようなら、さようなら、元気でいてね - K.Murano
2024/05/02 (Thu) 22:52:21
うまい女性演歌歌手はたくさん現れた。
しかし、都はるみのように、振袖すがたで舞台の上を素早く縦横に動いた歌手はいないのではないか。右腕を斜め上に突き上げてその右腕を露わにしてみせる、そのポーズ。体全体を震わせる、そのパフォーマンス。
都はるみの歌は、歌だけを聞いていては、面白さが半減してしまうのではないか。あの舞台の上のすべての動きを見ながら聞くに限る、という歌(歌手)なのではないか。
●好きになった人
https://www.youtube.com/watch?v=JC7V8JHxJiY
●「王将一代 小春しぐれ」(歌謡浪曲)
https://www.youtube.com/watch?v=L6K6gVjLoUA
●「夜来香 オリエンタルムードを唄う」
https://paraisorecords.com/?pid=115924309
●夜来香/1972年
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=o3ONBlZ13vQ
●ふるさとよ
https://www.youtube.com/watch?v=JmvglVH6dyU
●愛は花、君はその種子(ジブリ映画「おもひでぽろぽろ」主題歌)
https://www.uta-net.com/movie/75055/-fWlUFay50s/
●人生、歌がある2024年2月3日放送国民的演歌歌手 都はるみ特集
https://www.youtube.com/watch?v=N_rWbqXQlbU
Re: 追補 - K.Murano
2024/05/02 (Thu) 23:24:58
上記:平岡正明氏の文章の中で、都はるみの「アリラン」は素晴らしい、とあるが、まったく賛成です(上記のサイト「夜来香 オリエンタルムード」参照)。
都はるみの父はコーリアンだった。コーリアン・ランゲージの歌を、春美は父親か親戚から直接、聞いたことがあったのではないか。
はるみが中国や朝鮮の歌を唄うとき、あの「こぶし」歌唱法は引っ込めて、澄んだ声が響き渡るのだ。
もしかしたら、小さい頃、地元の西陣の音楽教室に通っていた時の歌唱法に戻って、大人の「都はるみ」は、父親につながる歌を唄ったのではないか(と私は思った)。
Re: 追補(2) - K.Murano
2024/05/02 (Thu) 23:58:17
上記の中上健次の小説によれば、春美は小さい頃から、西陣の機織り女の母親(日本人)から歌を教わっていた。母は屋内で仕事をしながら歌を唄っていた。浪曲が好きだったという。
歌謡浪曲と銘打った「王将一代 小春しぐれ」は、都はるみの歌人生の最高峰ではないか、と思った(上記のサイト参照)。
村田英雄、三波春夫みたいに、浪曲を生かした歌を彼女はもっと歌ってもよかったのではないか。
「王将一代 小春しぐれ」を唄っているとき、はるみは、もしかしたら、働きながら歌っていた母親の姿を思い浮かべていたのかもしれない。
Re: 正誤表 - K.Murano
2024/05/03 (Fri) 00:11:02
上記「京都の喫茶店から「都はるみ」へ」で引用した中上健次の小説からの引用の第一行目:
(誤) 転生の大歌手
(正) 天成の大歌手
Re: 正誤表の正誤表 - K.Murano
2024/05/03 (Fri) 00:16:19
(誤) 上記「京都の喫茶店から「都はるみ」へ」で引用した中上健次の小説からの引用の第一行目
(正) 上記「京都の喫茶店から「都はるみ」へ」で引用した中上健次の小説の一節の第一行目
Re: 元気でいます - K.Murano
2024/05/03 (Fri) 11:54:45
ありがとうございます。
母は先月、満98歳を迎えて元気です。さすがにちょっと、ぼけてはいますが。
施設の方針か、塗り絵に励んでいます。同じ所の入居人たちが「おとなしすぎる」と不満を洩らしています。一人で大声で歌を唄っています(戦後ではなく、愛染かつらなど、戦前・戦中の歌が多いようですが)。
『生きる 廉子・広子文集 増補改訂第2版』(私家版、2021年9月発行)所収の「飽きたからやめんべえや」という聞き書きの一文は、福島みゆき氏主宰の「せせらぎ」誌に載せることができなかったものす。これは、次回の「水源地」7号に載せていただこうかな、と希望します。その内容は、壷井栄の小品「餓鬼の飯」と共通するもので、農村の女の子たちのその行事については、母の文章のほうが詳しいくらいです。
なお、上記の中上健次の『天の歌 小説 都はるみ』ですが、春美の父母の経歴については触れていません。「実録・都はるみ」だったら触れたかもしれませんが、「小説」ということで、当時、中上は、はるみのプライバシーを守ったわけです。
私の母は、都はるみがいつまでたっても(若い女の子みたいに)長振袖のキモノを愛用していること、その柄(がら)が綺麗なことを指摘していました。
引退したとはいえ、今ではネットでかなり、彼女の歌と姿を視聴できます。便利な世の中になったものです。
Re: 正誤表 - K.Murano
2024/05/03 (Fri) 11:58:50
上記:
(誤)『生きる 廉子・広子文集 増補改訂第2版』
(正)『生きる 廉子・宏子文集 増補改訂第2版』
富弘美術館 - 粕谷隆夫
2024/05/02 (Thu) 10:06:33
晩秋の一日、年にいちど東村の富弘美術館へ家族四人で出向きます。桐生、東村、足尾鉱山跡、日光回りの長距離ドライブです。美術館の横に小さな湖があり、ゆったりとした空間です。
美術館の近くに日帰りの温泉があり、ここで昼食を楽しみますが、運転を息子と交代する場所で、「親父、一杯やってもいいよ」といつも言ってくれるのがありがたいです。
星野さんの絵葉書を五枚購入するのですが、やはりすぐになくなってしまいますね。書庫にあるのは『ことばの雫』一冊のみ。
Re: 富弘美術館 - 粕谷隆夫
2024/05/03 (Fri) 08:25:02
わが愚妻は、茨城県自然博物館のボランティアに参加し、『鳥』の部に配属されました。70歳を迎えて退部しました。「あっという間の30年よ」。最初は馬鹿にしていましたが、そこらに飛んでいる鳥や、ドライブで空を横切る鳥の名前を簡単に口にする。
「自然に植物にも詳しくなるよの」ときたもんだ。たしかに名前がポンポン出てくる。「門前の小僧か」と呟くと、相変わらず素直でないと切り返えされます。
星野さんの言葉。「過去の苦しみが後になって楽しく思い出せるように、人の心には仕掛けがしてあるようです」。これは深い。『ことばの雫』の一節。
Re: 星野富弘とフジ子・ヘミング - K.Murano
2024/05/03 (Fri) 17:16:32
先月は、ロシア系スウェーデン人を父にもつピアニストのフジ子・ヘミングが逝去しました。昨日の日付けで、彼女の財団のHPに、その旨の「案内」が載りました。
https://fuzjko.net/news
本日、近くの市立図書館に寄ってみたら、星野富弘とフジ子・ヘミングの特別のコーナーが設けられ、二人の著作が並べられていました。