301549
雑誌「水源地」WEB版(水源地.com)を閲覧される方は、すぐ下の「ホーム」をクリックしてください。

「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - K.Murano

2024/07/20 (Sat) 21:44:53

 本年5/24の本欄に、饗庭篁村(あえば・こうそん)と右田寅彦(みぎた・のぶひこ)の無鉄砲な飲み会を紹介した。

 河川(隅田川?荒川?)の洪水によって「その内に水嵩が増して来る。更に畳に畳を積み加えて飲む。しばらくすると、また増した。果ては天井と積み上げた畳との間に、腹這いになって飲む。」という、呆れた「向こう見ず」の酒友たち。

 今、こうした呑み助にぴったりのロシア語の慣用句を紹介したい。以下、栗原成郎著『スラヴのことわざ』(ナウカ株式会社、1989.7.20発行)23~24頁から引用する。

      ━━━━━━━━━━━━

 <Пьяному море по колено>:「酔っぱらいにとって海は膝(ひざ)まで(酔っぱらいの向う見ず)」(ロシア)

(以下、ウクライナ語、ポーランド語、チェコ語での同意の表現の列挙は略)

 スラヴ人はおしなべて酒好きであり、強い酒を飲むから、この諺(ことわざ)はすべてのスラヴ語にあってもおかしくはないが、南スラヴ語には同じ表現のものが見あたらない。

 チェコのロマン派詩人チェラコフスキーの編纂した諺集『諺にあらわれたスラヴ民族の知恵』(1852)では、この諺はロシアおよびウクライナのものとされている。チェコ語の諺はロシア語からの翻訳である。ポーランドにはウクライナ経由で流入したのであろう。

 この諺はロシアが起源と考えてよく、古くは次の形で知られていた。

 <Пьяному море по колено, а лужа по уши>: 「酔っぱらいにとって海は膝まで、水溜まりは耳まで」(ロシア)

 現在の表現はこれを省略したものである。

     ━━━━━━━━━━━━

 上記の饗庭篁村と右田寅彦の畳を重ねた上での飲み会では、すぐそばに河川の水が迫っていた。上記のロシアの諺の「海は膝まで、水溜まりは耳まで」を思わせる。

 ★★「水源地」7号に、6号所載の翻訳の続編を載せるための作業に迫られていて(私はとろいので準備に時間をかけたい)、当分、ブログ「談話室=水源地」は休筆します。あしからず。

 座右の銘は、海外文学翻訳大流行の昭和初期の円本ブームの時に正宗白鳥が放った一句:「一夜漬けの翻訳だけはやめてくれ」。

Re: どぶろくとソ連兵(於 志発島) - K.Murano

2024/07/21 (Sun) 21:40:27

『舟 北方領土で起きた日本人とロシア人の物語』(マイケル・ヤング著、樫本真奈美訳、皓星社、2024年6月30日初版第1刷発行)では、表題の小説のほか、1945.8.15の日本国の敗戦の直後に志発島に上陸してきたソ連兵についての、元島民の木村芳勝氏の証言も、収められている。その中に、こんなくだりがある(同書、276~277頁から。インタビュアーは樫本氏)。

      ━━━━━━━━━━━━

 父が米で濁り酒(どぶろく)を作っていたのですが、ある日、ソ連兵にあげると、そのお礼に、と馬に米を二俵吊るして米俵を運んできました。

 当時、ソ連は日本軍が備蓄していた米を没収しましたが、当時のロシア人は米を食べる習慣がなかったようです。当時は食べるものも節約し、米にイモやカボチャを混ぜて食べていたので、白米が食べられて嬉しかったのを覚えています。

 そうなると、父のどぶろく作りにも気合が入ります。ロシア人のほうも「もっとよく絞って」という仕草をして、父にもっと濁りの少ない酒を造るよう要求していました。父がぎゅっと絞ると「ハラショー!」と言って喜んでいました。

 根室に行った時、白米の配給はほんの少ししかありませんでした。結果的に島のほうが白米をしっかり食べられることになったのです。

 最後の強制引き揚げの時には、ロシア人の家にお別れの挨拶を兼ねて遊びに行きました。

     ━━━━━━━━━━━━

 偶然見つけたが、木村芳勝氏は以下の「読売テレビニュース」にも出演しています。

→ https://www.youtube.com/watch?v=GwVYfrwHcgo

Re: 「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - 樫本真奈美

2024/07/22 (Mon) 09:05:24

村野さま
木村さんのインタビューで、私もこのくだりが一番好きです。
これまで元島民1世の方たちは、こうしたロシア人との交流の思い出があっても、「返還」を訴えねばならない手前、楽しい記憶については「語らない」「語れない」雰囲気があったそうです。
木村さんの映像インタビューはこれまでも残されていますが、そこにも「どぶろく」のことやロシア人と楽しく遊んだ記憶などは記録されておらず、その時に木村さんが語ったとしても、取材側が削除している可能性があります。
根室の方々の多く(特に2世、3世)は、これまでのビザなし交流などの経験から、「島を返せ!」とだけ訴えていても何の解決にもならない、仲良くすることが何よりも大事だとおっしゃいます。それもあってか、島民1世の方々がこうした「共生の楽しい記憶」を堂々と語り始めたのは、わりと最近だそうです。
そういう意味で、これまで多くの人が木村さんの話を聞いておられるはずですが、とりわけロシア人との記憶を引き出して記録できたのは良かったと思いました。

あと、驚いたのは、木村さんが覚えておられるロシア語の単語の発音がとてもキレイでした。数字は1から5ぐらいまで数えてくれました。

Re: 『舟』の意味 - K.Murano

2024/07/22 (Mon) 19:58:56

 樫本 様

 樫本さんが今回翻訳した小説『舟』ですが、日本人とソ連人住民とが協力し合って子供たちの救出を成し遂げた、という出来事も、日ごろの両者の日常的な交流の場があったからこそ可能だったのだ、と思います。

 今後も、当時の日ソの島民同士の日常的な交流からくるエピソードが「発掘」されてゆくとよいですね。

 『舟』刊行がそうした動きの一助になれば、と願います。

 

Re: 「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - 樫本真奈美

2024/07/23 (Tue) 11:30:55

村野さま
当時は日本人もロシア人も皆貧しかったのもあり、協力して生きようと前向きなったのかもしれませんし、
元島民の手記を読んでいても、日本人住民がロシア語を覚えようと村で勉強会を開いてロシア語単語を覚えたといった記述もありました。日本人の生真面目さもあるのかもしれないし、「恨み」だけに囚われない前向きな姿勢に感動しました。

写真は、納沙布岬の資料館に展示されている、数少ない「混住時代」の写真です。ロシア側の従軍写真家が撮影したフィルムが近年になって発見されたものです。(このアルバムのオリジナルは、東京広尾の図書館に入ってます)
真ん中あたりの写真、囲碁をしている写真に女の子が写っていますが、いまも札幌でご存命です!奇跡!
https://moto-tomin2sei.hatenablog.com/entry/2021/01/24/093047

Re: 「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - K.Murano

2024/07/23 (Tue) 17:29:07

 樫本 様

 なんとも珍しく、素晴らしい写真を紹介していただいて、ありがとうございました。

 サハリン南部はどうだったのかな、とふっと思いました。日常的な日ロ(ソ)の人たちの混住生活からくるこうした光景が、サハリンでも、あったのでしょうか。

 話は脱線しますが、旧満州時代に(日本人によって)作製・販売されていた絵葉書類ですが、ハルビン絵葉書など、ロシア人はロシア人、日本人は日本人と別々になって取られた写真が用いられています。街頭風景など、ロシア人、日本人、中国人と混在したものがあるのかもしれませんが・・・。

 私にはただ一人ですが「北方領土三世」の知人があります。命からがら島から脱出した話を祖父母から聞かされて育ったおかげで、長く「ロシア人は人間ではない」と信じ込んでいたそうです。「ビザなし交流」で島に行きロシア人家庭を訪問して「初めて考えが変わった」と語っていました。

 話はさらに脱線しますが、もう大昔、新宿の線路際にコーシカというちっぽけなスタンドバーがありました。そこのMママは日本人か中国人かわからないといった風貌のひとで、戦前にハルビンにいました。日・中・ロと三か国語を話していましたが、昭和20年8月15日直後、住んでいた所の庭に日本人の赤子が棄ててあったそうです。

 歳月が流れ、こうした「戦災孤児」(中国「残留」日本人)の人たちが一時帰国した際に、成田空港だったかTVでその応接の光景を放映していた際に、このMママが、迎える人々の中に写っていました。偶然に目にしたのですが、TVを前に、私は感動しました。

 「庭」に赤子が棄てられてあったことはMママ本人から聞いたのですが、その赤子とその後、どういう関係があったか、そのことは私は聞きそこねました。しかし、成田空港まで出向いていくのですから、相当な関係だったのでしょう。「共生」の一例、と言えるかもしれません。

Re: 正誤表 / 大陸絵葉書 - K.Murano

2024/07/23 (Tue) 19:35:03

 上記:

 (誤) ~と別々になって取られた写真が用いられています。
 (正) ~と別々になって撮られた写真が用いられています。

       ━━━━━━━━━━

 なお、日中戦争期(「満州事変」から数えるならば15年間)に日本人が撮影・作製・販売した「大陸絵葉書」類には、被写体が貧しい中国人、朝鮮人のものもある。以前、いろいろと眺めたことがあるが、当時の日本人の制作側の「上から下目線」とばかり言いきれないものを、どこか感じた。

Re: マンマミーア - 粕谷隆夫

2024/07/24 (Wed) 06:59:57

 早朝、会社に来て、樫本さんと村野氏の文のやりとりを見て、今回の『北方領土の話題と最新事情』には驚きました。歴史と時間の流れを感じると共に、生きている今の平和を大切にしたいと考えました。

 列車のスイス人夫妻の旦那から、イタリア語を知っているかと聞かれ、「一つだけ、マンマミーア」と言ったら、ビールを口から吹き出し、大笑いしていましたが、今朝は、ロシア人の囲碁の姿を見て、冷たい缶ビールを呑みたくなりました。

Re: 「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - 樫本真奈美

2024/07/24 (Wed) 09:27:02

村野さま
元島民の方々でも、共生時代を経験していない人たちは同じような感情を抱いてきたと思います。ただ、おっしゃる通り「ビザなし交流」の努力は凄まじくて、相互理解しようという努力が並々でなく、その結果が確実に出ていると思います。
コ―シカのママの話、いい話ですね。ハルビンこそ、まさにコスモポリタン!さらっと三か国語を話せるあたり、素敵ですね。
加藤登紀子さんが隣に白系ロシア人が住んでいて、皆貧しかったけれど「心を貧しくしてはいけない」と言って音楽を教えてくれたと言っていたのを思い出しました。

粕谷さま
北方領土問題は敬遠されがちな面がどうしてあるのか、とずっと思っていました。ロシア研究者でも北方領土に関心のある人、少ないです。「返還運動」のイメージが強すぎて近寄りがたいのかもしれません。
そうではない人間的な側面は必要だと強く思います。
ちなみに、ある記者に「ロシア語できるのに北方領土のことをやってこなかったなんて、温室育ちなんですね」と強烈な嫌味を言われました・笑
でも、一理ある、と肝に銘じるようになりました。

Re: 子供達の遊ぶ姿 / エプロン、襖障子の破れ - K.Murano

2024/07/24 (Wed) 10:12:33

 樫本さん紹介の写真のロシア人の囲碁する光景の中にいる女の子は私の母の大昔の姿とそっくりです(笑)。昭和前期の小さい女の子らはよくああいうエプロンを掛けていました。
 囲碁をしている場所は日本家屋ですね。襖障子の一部が破れている。誰が破ったか。女の子の兄とか弟か。

 日ロ(ソ)の子供らが一緒に、小さな草地の中にしゃがんでいる光景の写真も珍しいものです。小さな社が写っています。カメラマンの視線を感じます。彼にとっても珍しい思いがしたのかもしれません。あるいは、たんに「ほほえましい」と思ったのみか。

 戦前・戦中の台湾や朝鮮半島では、これに似た写真がなかったのかな、とふっと思いました。

 今、思い出しましたが、私がTVでMママを見たとき、そこは成田空港ではなく、東京の代々木公園内だったか、の施設だったと思います。面接の場を都内に設けていたわけです。

 今回の北方四島での短い日ロ(ソ)混住期を捉えた写真は、私は初めて見ました。今後も、日ロ双方からこうした写真が出てくるとよいですね。

 あの日ロ(ソ)の子供らが一緒に遊んでいる光景こそ、『舟』に出てくる子供たちの姿そのもの、です。多くの人たちに『舟』とそこに所収された元島民の証言とが末永く読まれていくことを、心から望みたい、です。

Re: 「撮影場所は国民学校の裁縫室」 - K.Murano

2024/07/24 (Wed) 11:50:32

 囲碁の写真ですが、樫本さんが上記紹介したハテナ・ブログの記事に、「撮影場所は国民学校の裁縫室」とありました。私は何となく日本人住民の一軒家の中のことか、と思っていました。

 日本人の女の子がこの囲碁対局の場に座っていることが、ミソです。女の子のそばの、顔の見える若い対局者は膝を曲げて座っています。そのお相手のおっさんは膝を立てている。

Re: 「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - 樫本真奈美

2024/07/24 (Wed) 19:30:54

村野さま
昭和の女の子ファッションは、こんなエプロンが流行っていたんですね!おかっぱ頭はいかにも、という感じですが知りませんでした。
この女の子、いいですよね。
ある元島民の人から聞きましたが、ロシア兵は独身の人、家族を大陸に置いて来た人も多かったので、日本人の子でも小さな子供をとても可愛がったそうです。
自分は引揚げの時赤ちゃんだったから記憶がないけれど、最後の引揚げ家族で、毎日のようにソ連兵が家に遊びに来て、私を抱っこして可愛がってくれた、と親から聞かされた、私のことを「ターシャ」と呼んでいたらしい、と聞きました。

韓国、台湾にもきっとこうした写真は沢山あるはずです。でも、「表に出さない」理由があるのでしょう。

Re: エプロンは「よだれ掛け」の進化したもの? - K.Murano

2024/07/25 (Thu) 12:37:20

 ウィキペディア「エプロン」を見ましたが、明治以降のこの<輸入文化>については大人の世界の話ばかりで、子供の衣服文化への影響が記されていません。

 小さい子供の「よだれ掛け」との関連はどうなのか、という点も気になります。昭和初期の写真に出てくる女の子らのエプロン姿は、大人の世界のエプロン流行の単なる影響の結果なのかどうか。

 クラーノフ氏は「偉人伝叢書」(ЖЗЛ)のなかの自著「ゾルゲ」のどこかで、エプロン姿(だったと思いますが)の女給の姿のスケッチを掲載しています。荷風の日記文学「断腸亭日乗」にあったもので、荷風自身が銀座の女給を筆写したものです。クラーノフ氏にとって女給さんがたのそのエプロン姿がよほど面白かったのかもしれません。

 上記ウィキペディアによれば、割烹着(かっぽうぎ)はエプロンの一種であり、これは日本人が考案したものだとか。

 江戸時代の飲み屋や蕎麦屋が出てくる時代劇のTVドラマなど、たしかに、銚子や徳利を運んでくる女性たちはエプロンらしきものは着けていません。しかし、当時の赤子や小さい子どもは「よだれ掛け」はしていたのではないか。

 明治になってエプロンが外来した際、江戸時代の「よだれ掛け」文化という「下地」があったから、案外、大した違和感もなくその着用に及ぶことになった、ということなのかもしれません。

Re: 「海は膝まで、水溜まりは耳まで」 - 樫本真奈美

2024/07/26 (Fri) 09:08:00

村野さま
エプロンの話、面白いですね。改めて、村野さんのお母様の幼少期のお写真を拝見しました。可愛らしいですね。
昭和初期の女の子たちのエプロン姿には、どんな流行のきっかけがあったのでしょうね。「よだれかけ」が進化した可能性もありますね。
クラーノフさんの「ゾルゲ」も見てみました。
確かに、氏にとっては「珍しい」ものだったんでしょうね!

Re: エプロンは「モダン」? - K.Murano

2024/07/26 (Fri) 20:52:51

 昭和初期の女の子たちのエプロン姿の写真についてネットで探してみましたが、見つかりませんでした。

 母の実家のあった土地は、今は東京都のなかに含まれてはいますが、三多摩地方の一角で、当時はまったくのド田舎、でした。母の所は裕福なほうの養蚕農家でした。一方、貧乏な農家ではどうだったのか。ああしたエプロン姿の子供がいたのか。私には、わかりません。(あのエプロンは農家で自前でつくったものか否か)

 「地域差」も気になります。昭和の初期、たとえば、関西の田舎や都会では、どうだったのか。当時の東京市の下町でああした格好の女の子たちを撮った写真があるのでしょうか。(ライカなど当時の写真機は高級品だったはずですが)

 今の私たちの感覚ではなかなか掴みにくいのですが、当時の女の子たちにとって、日用の和服の上にまっしろいエプロンを掛けることは(それを眺めている大人にとっても)「モダン」な感じがしていた、のかもしれません。

 いずれにせよ、たしかなことは日本服装史の専門家にでも訊かなければわからないのでは、と思います。

 そういえば、私は本欄で最近「休筆宣言」したばかりでした(笑)。「水源地」7号所載予定の翻訳に気持ちを専念させなければなりません。では、そろそろ「夏休み」に入ります、樫本さんの『舟』の航路に幸いあれかし、と祈念しつつ。

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.