山田淳子 写真展「わたしの百人の祖父母たちー北方領土・元島民の肖像―」のご案内 - K.Murano
2025/09/10 (Wed) 20:21:19
2025年9月4日(木)~9月15日(月) 山田淳子 写真展「わたしの百人の祖父母たちー北方領土・元島民の肖像―」(作品点数110枚〔予定〕)
■期間 2025年9月4日(木)~9月15日(月)10:00 〜 18:00 最終日 15:00 まで
入場無料 ※休館日9月9日(火)・10日(水)
■トークイベント 9月13日(土)15:00~
ゲスト:小泉悠(東京大学 先端科学技術研究センター 准教授)
■会場 OM SYSTEM GALLERY(旧 オリンパスギャラリー東京)
●営業時間
10:00~18:00
火曜・水曜定休、GW・夏季・年末年始の長期休業
●所在地
〒160-0023
東京都新宿区西新宿 1-24-1 エステック情報ビル B1F
電話番号:03-5909-0190
●山田淳子氏の言葉:
「私の祖父は昭和二十年秋まで現在は北方領土とよばれている歯舞群島の志発島で漁師として暮らしていたが、昭和二十年九月に旧ソ連兵の侵攻により島を脱出し、その後は一度も島に帰ることなく亡くなった。
私は祖父から一度も島の話を聞いたことはない。家族から祖父が北方領土にいたことは聞いていたが、ずっと忘れていた。
自分のルーツを知るために釧路へ元島民である父の従兄弟に会いに行った時に「元島民に会って話を聞いて写真を撮る」ことを決めた。
祖父はなぜ島のことを話さずに亡くなったのか、それを知る術はもうない。しかし元島民に会って当時の話を聞くことはきっと祖父の記憶と重なるものがあるのではないかと思っている。
2025年は昭和100年であり、戦後80年を迎える年である。元島民の平均年齢は89歳を超え、存命の島民の数は5,000人を切っている。
2019年から撮影を始めて6年で100余人の元島民の撮影を終えた。今回はこの元島民たちのポートレートを中心に展示をする。」
以上、以下のサイトから。→ https://note.com/omsystem_plaza/n/n88632d8cdb6c
「出版社が差別を煽るな」(東京新聞社説)を読んで - K.Murano
2025/09/04 (Thu) 21:39:24
本日キオスクで「東京新聞」を買ったら社説で「週刊新潮コラム」の事件を取り上げていた。
最初は「なんだ、今頃になって社説とは対応が遅いではないか」と思ったが、その末尾あたりに「批判が高まる中、「週刊新潮」は8月28日号で連載終了を告知したが、理由の説明は一切ない。」とある。ということは、この「連載終了」告知を受けた形で今回、社説の筆を執ったのだろう、とも思った。
この事件を初めて知った時から私が気になっているのは「深沢潮ら」の「ら」の人々だ。
深沢氏は記者会見を行ない、新潮社と、問題の「週刊新潮」の高山正之氏(元産経新聞記者)のコラムの内容を告発した。そのコラムでは深沢氏以外にも実名を挙げて非難された人が「複数」いたという(私自身はまだ記事の現物にお目に罹ってはいない)。
つまり「週刊新潮」の読者は(このコラムを読んでいれば)その「複数」の人達の姓名を知っているわけだ。そうした事態であっても、高山氏から「日本を貶める外人」と罵られたその「複数」の人たちはあえて沈黙を守るのだろうか。深沢氏のような真似をしたらネットでとやかく話題になるだろうから、と恐れているのかもしれないが、仮に、深沢氏があえて記者会見を開かなかったとしたら、どうなったろうか。全員が永遠の「泣き寝入り」状態のままになったかもしれないではないか。
以下、上記社説の前半から引用しておく。
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「週刊新潮」は7月31日号で、ジャーナリスト高山正之氏の連載コラム「変見自在」を掲載。「日本人を装って日本を貶める外人は排除しきれない」などとして、作家の深沢潮さんら複数の人を実名で非難した。
深沢さんは東京都出身で、両親は在日韓国人。30歳で日本国籍を取得した後、〔20〕12年に作家デビューを果たした。だが、当時から自らの出自を一切隠していない。「日本人を装って」といった非難は事実でない上、排外主義的な悪意を強く感じさせる。
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私はジャーナリストとか新聞記者は「事実」(ファクト)から出発するものばかりと思っていた。ところが、高山氏は、深沢氏が作家デビューから今日まで「自らの出自を一切隠していない」ことを知らずに、あるいは知っていて、非難したわけだ。「事実」をろくに調べもせずに筆を執った、と思われても仕方ないだろう。大新聞社出身だそうだが、現役記者時代はどんな記事を書いていたのだろうか。まさか外国人排斥に精を出していたのではあるまい(?)
ラフカディオ・ハーンに向かって「お前は小泉八雲なんてペンネームを使って日本を貶めている外国人である」などと罵ったら吹飯ものだろう。
なお、ネットで目にしたが、以下の記事がある。雑誌「創」編集長の篠田博之氏の筆によるものだ。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/51ecd4b27c181dc3554ed5c4ca664b56f2144fea
Re: 「出版社が差別を煽るな」(東京新聞社説)を読んで - 粕谷隆夫
2025/09/05 (Fri) 08:38:18
当社の資料室の週刊新潮29号『7月31日』号。122頁。高山正之・変見自在『創氏改名2・0』です。
ええ、連載1144ですか。163週も書いているの?
Re: 正誤表 / 8月4日の会見から - K.Murano
2025/09/05 (Fri) 10:15:23
粕谷様、問題の記事を紹介していただき、ありがとうございました。
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上記(小生の書き込みから):
(誤)・・・「深沢ら」の「ら」の人々だ。
(正)・・・「深沢さんら」の「ら」の人々だ。
単純な脱字ですが、失礼しました。
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今回の深沢潮氏の発言で(私にとって)印象深かったのは以下のくだりだった。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/70704855385356f183c58fcd238f5458f7ffec75
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「文芸の老舗である新潮社の「女による女のためのR18文学賞」の大賞を受賞したとき、私はとても誇らしかったです。これまで影響を受け、愛読してきた文学は、新潮社から刊行されたものが多かったからです。「女による女のためのR18文学賞」出身の作家さんたちの作品も大好きでした。このような素晴らしい文学作品を輩出し続けてきた新潮社からデビューし、数冊の本を出せたことは、とても幸せでした。
しかし、今回の件で、私の心は打ち砕かれました。
屋上でいい景色を見せてくれたと思ったら、背後から突き落とされた、そんな感覚です。
レイシズムに基づいた差別扇動となる、事実誤認のあるコラムが、信頼していたデビュー版元の媒体に載ったことは、私一人ですませていい問題ではないと思い、このような記者会見にいたりました。」
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上記サイトには以下の記述もあった。これをみると高山氏がいかに事実(ファクト)を調べていなかったかが明らかだ。朝日新聞への攻撃という「理念」(イデオロギー)の囚人になっていて、そのためには自分で捏造した「事実」を並べて事足りる、という姿勢にみえる。(以下、すべて引用)
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同じく記事で「日本人を装って日本を貶める外人」とされた東北大の明日香寿川教授も、オンラインで、こう語った(音声がうまく流れず、司会の代読となったが)。
「明日香寿川は戸籍上の本名であり、通名など持っていません。大事なのは、自分たちと違う意見を非国民・非愛国者と批判するのは、それこそ日本がかつてたどった破滅への道だということです」
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Re: 『変見自在』など取り上げるな! - 天道公平
2025/09/07 (Sun) 12:09:49
粕谷大人は、以前にもこの談話室で高山正之の『変見自在』のコラムを取り上げて好意的なコメントを付けておられました。その時に私は、高山正之の事実誤認にもとづく立論の不備をとことん貶してやろうと思い文章を書き出したのですが、事実確認のために要求される労力の大きさに嫌気がさして、こんなことをしている場合ではないと断念してしまいました。
粕谷大人がかつて古田博司の文章を紹介していた時にも感じたことですが、粕谷大人は差別意識に対してあまりにも鈍感過ぎます。
ネット情報に疎い粕谷大人が、村野さんの投稿に対して即座に反応し、高山正之のコラム記事を掲載出来てしまったということ自体の中に問題は潜んでいるのです。
批評的考察のための資料として取っておいたというのならば別に問題はないのですが、粕谷大人の場合はどうもそうではないのです。高山のコラムを連載している『週刊新潮』のような週刊誌が資料室に保管されている事が、粕谷大人と高山正之の思考法に親和性があることを示しています。長年の習慣だろうからそうも行かないのでしょうが、『週刊新潮』なんかとはさっさと縁を切ればいいのに、と私は思います。
サンバカーニバル - 川上 宏
2025/09/01 (Mon) 01:14:53
病院(お見舞い)の帰り浅草に寄ったら、浅草サンバカーニバルに出会いました。神谷バーとサンバ!
70代後半と思われる爺さんが、踊っていて熱中症に
なったのか、救急隊員に抱きかかえられ、会場から搬送されてました。
「あの爺さん、大丈夫かな?」
須賀、川端、バーグマン、ヘミングウェイ - K.Murano
2025/08/27 (Wed) 23:32:13
最近本欄で須賀敦子(1929-1998)『本に読まれて』(中公文庫)に触れたが、その際に書きそびれたのは、川端康成(1899-1972)がスウェーデンでのノーベル文学賞授賞式(1968.12.10)と講演会(翌12.11)のあと、奥さんと共にイタリアで須賀敦子と会食している、ということだ。
須賀のこの本所収の文章によると、イタリアの日本大使館員が手配してくれたという。ウィキペディア「川端康成」にはスウェーデンからの帰途パリに寄ったことは記されているが、イタリアにも足を伸ばしたことは出てこない。須賀は川端とは初対面だったのだろうが、前年(1927年)に夫ペッピーノが逝去したことを洩らしている。すると川端は「そこから文学が始まるのだ」と告げたそうだ。このエピソードから須賀は一挙に川端文学の本質は何だろうかと論を進める。
『本に読まれて』は一人の著者による書評エッセイ集だったが、同じく私が古本屋さんで最近購入して「読まされた」本に、朝日新聞(1999年9月~2004年3月)に73名の小説家、詩人などが執筆(一人4000字強くらい。3回の分載)したものを寄せ集めた『いつもそばに本が』(ワイズ出版、2012.1.5第1刷)がある。二段組で本文450頁ほど。この本で一番(私には)印象強かったのは、和田誠(1936-2019)がさらりと書いた、以下のくだりだ。
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ヘミングウェイは映画の「誰が為に鐘は鳴る」を5回見た、とヒロインを演じたイングリッド・バーグマンに言ったそうだ。バーグマンが喜んで「そんなに気に入ってくれたんですか」ときくと、「いや、我慢できずにすぐ出てしまうので、全部見るまで5回かかった」と答えた。この話はバーグマンの伝記『マイ・ストーリー』に出てくる。
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「この話」を読んで私はどういうわけか、川端康成が映画「雪国」や「伊豆の踊子」の撮影現場に乗り込んで(それぞれの現場で)岸恵子や吉永小百合と仲良く一緒におさまった集合写真を思い出した。
出来上がったそれらの映画作品を映画館のなかで見て川端が何を思ったのかは知らないが、どうやら、ヘミングウェイのほうが映画に対しては厳しそうだ。あの映画で大変な熱演(とは小生の印象)のバーグマンを前にして平気でそんなことを口走るヘミングウェイ。
川端康成の方は、どうだったのだろうか。
Re: 正誤表 - K.Murano
2025/08/27 (Wed) 23:34:53
(誤)前年(1927年)に夫ペッピーノが逝去した
(正)前年(1967年)に夫ペッピーノが逝去した
ワード検索 - 粕谷隆夫
2025/08/29 (Fri) 07:00:46
便利なもんです。
山の手は『田舎』でしたか。
Re: 「山の手」とは?→ AIの返答 - K.Murano
2025/08/31 (Sun) 20:36:19
「山の手」とは何ぞや、とネット検索してみました。すぐに、AIから返事がありました。以下の通り。
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「山の手(やまのて)」とは、本来は都市部で山の方向にある高台の地域を指す言葉で、特に江戸・東京では武家屋敷が多く置かれていた台地上の地域を意味します。
現代では、対義語の「下町(したまち)」と共に、高級住宅地や富裕層のイメージと結びつき、東京では西側の台地区域を指すことが多いです。
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下記の「鐘ヶ淵」のブログのやり取りの流れで、私はだいぶ以前の私の書き込みを紹介しました。舞台は1960年代前半の世田谷区八幡山町です。
たぶん、当時の八幡山の住民に「われわれは<山の手>に住んでいる」という意識はなかった、と思います。
当時の八幡山のあちこちに広がる畑地には肥溜めがあり、住民はみんな汲み取り式便所だったはずです。
そんな状況の場所を「田舎」と呼んでも、今の感覚だと、大きく外れているとは言えない、とは思います。
それも、1964年の東京オリンピックを境にして、変貌が始まりました。田んぼと畑がなくなっていきました。かなり早いテンポだったと回想します。
鐘ヶ淵 - 川上 宏
2025/08/25 (Mon) 10:40:01
"出没!アド街ック天国"というTV番組(テレビ東京)が東武鉄道
を特集し、23日は鐘ヶ淵駅が取り上げられました。
粕谷氏の話の中に、よく鐘ヶ淵が登場します。
私の中の記憶では、鐘ヶ淵といえば"カネボウ"か
"鐘淵化学工業。それしか思い浮かびません。
Re: 鐘ヶ淵と荷風 - K.Murano
2025/08/25 (Mon) 19:55:54
私は東京下町の地理には疎いのでネットで検索しましたが、鐘ヶ淵の近くが玉ノ井なのでは? ということは、『墨東奇譚』の荷風は鐘ヶ淵も歩いたのでしょうか。
岩波文庫では『断腸亭日乗』全2巻(抄録版)がありますが、その後、『日乗』全巻の同文庫版が刊行中で、現在、(一)~(四)=大正6年~昭和10年(1917-1935)まで出ています。どこかに鐘ヶ淵も登場しているのかもしれません。
Re: 正誤表 - K.Murano
2025/08/25 (Mon) 21:03:31
(誤)墨東奇譚
(正)濹東綺譚
Re: 鐘ヶ淵 - 粕谷隆夫
2025/08/26 (Tue) 07:09:31
鐘ヶ淵駅のひとつ北千住寄りの駅が堀切駅。ここは隅田川と荒川の二つの川に挟まれています。なんともいえない風情があります。ここにカネボウ物流のビルと倉庫がありました。
親父が亡くなってノース通信社をやめ、金が必要になったため、物流の世界に入りました。まだ20代の昔の話です。カネボウ物流に顔を出したら、「えッ、粕谷さんの息子さん」という事で、話はトントン拍子。鐘ヶ淵の駅前のスッポン屋で一杯。今でもあの店あるのかな?
しかしお世話になった方々は、皆さんゆっくり永眠なさっております。時は過ぎゆく。
Re: 鐘ヶ淵 - 川上 宏
2025/08/26 (Tue) 09:51:01
東武スカイツリーライン東向島駅(旧玉ノ井駅)から、北千住に向かってひとつ目の駅が鐘ヶ淵駅。カフェー街は戦後、北の方に拡張したようなので、荷風さんも歩いたのではないでしょうか。
"下町の太陽"(1963年/松竹)は、東武線、京成線沿線の下町が舞台。主人公の寺島町子(倍賞千恵子)は石鹸工場で働く女工さん。京成曳舟駅のそばにあった資生堂に勤務していたらしい。
Re: 鐘ヶ淵 - 粕谷隆夫
2025/08/27 (Wed) 07:12:57
隅田川を挟んで、鐘ヶ淵の対面(といめん)が荒川区南千住10丁目です。ここに鐘紡と日紡の工場があり、数多くの社宅がありました。地方から出てきた人々は自宅など持てません。
茨城の祖父と秋田の祖母はやはり鐘紡に勤めていて社内結婚。祖父は腸チフスで38歳で死亡。
まあ、いろいろありましたが、ここは狭い社宅の話です。玄関口に2畳、そして6畳、4畳半、3畳と台所。これのみ。小生の部屋は3畳でした。あれは中学3年のときかな。朝型なので早寝。テレビの声でふと目ざめると、祖母、母、叔母、妹が真剣な目つきでテレビに釘づけ。それは何か恐ろしさを感じましたね。
それが『氷点」。芦田伸介が出ていましたね。
Re: 鐘ヶ淵 - 川上 宏
2025/08/27 (Wed) 21:39:30
結婚してすぐ社宅に入ったのですが、1960年代に建てた鉄筋コンクリート製、間取りは粕谷氏のところと同じだったと思います。
4階建てで、もちろんエレベーターはなし、窓もアルミサッシではなく、刑務所にあるような重たい鉄製、風呂もガス釜の焚き口に直接マッチで火をつける仕様。様子を見に来た義母は意味深にひとこと「家賃に見合った造作ね」。
Re: 鐘ヶ淵 - 粕谷隆夫
2025/08/28 (Thu) 07:04:21
川上、村野、両兄の話を読むとニッカのロックを呑みたくなります。
まあ、戦後の匂いがまだ残っていたのかな。なんだろう。親父もお袋もガムシャラという感じ。われらの仲間も高校時代、学生運動でガムシャラ。小生みたいのは川端の小説の話をすると、「おまえは馬鹿か」という感じ。俺は、「石井君、お前、ちゃんと風呂入っているのか!」と逆襲。
しかし、時の流れで、残り時間を真面目に考えるこのごろです。社宅といえば、汚いはなしですが、当時は和式の汲み取り。我が家は、秋田県のいろいろな方々が、就職で東京にきて、みんな泊まっていく。鐘紡南千住工場の社務担当のひとが、「粕谷家は特別に汲み取りの回数、多くして」との配慮あり。親父もお袋も苦労してたな。俺は三畳間でひとりだったから良かったし、早く蝦夷地に行こうと思いましたね。
Re: バキュームカー活動中 - K.Murano
2025/08/28 (Thu) 23:12:00
「汚いはなしですが、当時は和式の汲み取り」とありますが、私が今ご縁のある「・・市」は、郊外の畑の拡がっているあたり、あちこちに散在している住宅地など、どこも汲み取り式か浄化槽です。
浄化槽といっても下水管と繋がっていればよいのでしょうが、そうでないほうが多いようで、結局、汲み取り式より回数は少ないにせよ、バキュームカーの世話になっています。
もう5年近く以前ですが、本欄に、以下、綴りました。キイワード「バキュームカー」で出てきます。
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私は子供の頃、世田谷区の八幡山という所にいましたが、東に松沢精神病院(元青山脳病院=斉藤茂吉)、西に芦花恒春園(通称芦花公園)(=徳冨蘆花)のはざまで、住んでる住宅地の近くに畑や田んぼが広がっていました。バキュームカーがなかなか来ないとかで両親は夜陰に紛れて自家製糞尿をバケツに入れて近くの畑の肥溜めに捨てに行ったこともあったそうです。国木田独歩「武蔵野」の渋谷村ほどではありませんが、まだ、のんびりした景観があったのです。
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畑地から「肥溜め」は亡くなってしまいましたが、バキュームカーはまだ健在です。
千玄室氏逝く - 粕谷隆夫
2025/08/22 (Fri) 07:11:58
珍しく山折氏が多弁になっている。
私事だが、愚妻は茶道と書道をずっとやっています。もう71歳だが、「これから奥の細道よ」と訳の分からぬ言葉を言う。
今日は月例会。これも奥の細道か?
Re: 千玄室氏逝く - 粕谷隆夫
2025/08/25 (Mon) 07:21:04
この文章は氏の生前最後の世に問う文章だろう。
大正12年生まれですか。・・・日本の近現代史の山道を思うと、よくも亡国にならなかった感を再確認します。
またまた自分が凡人であることに安堵しているこのごろです。
しかし熊の出現のニュースが多い。
Re: 千玄室氏逝く - 天道公平
2025/08/28 (Thu) 22:58:01
「珍しく山折氏が多弁になっている。」
どうしてこういう文章が書けてしまうのか、私には本当に不思議である。もしこの文章の内容が事実であるならば、こういうことを書けるのは、普段の寡黙な山折氏と日常的に接している家族や友人や同僚や親しい知人たちだけである。
断言しておくが、山折氏は決してお喋りな人ではないけれど、多弁の人である。そうでなければ日文研の所長など勤まらないし、あれほど多くの著作を世に問うこともないはずである。
山折氏は、これだけは次世代の人々に伝えたいという溢れる想いを何とか言葉にしようと悪戦苦闘してきた人であり、適切な言葉を潤沢に使って表現し、情理を尽くして相手に伝えるための努力を重ねてきた方である。
『墓碑銘』の記事を読んで、珍しく山折氏が多弁になっているとは私には到底思えない。山折氏にとって、千玄室氏は長年の盟友であり、一晩中語り明かしたとしても語り尽くせぬほどの交流があったはずである。週刊誌の連載というスペースの関係で山折氏の談話は相当カットされていると思う。おそらく、有能な編集者の手に掛かれば、山折氏の談話だけを元にして、『茶人・千玄室─その思索と行動の軌跡』というようなタイトルの書物を上梓することも可能ではなかろうか?
山折氏は、聴衆の心を鷲掴みにするような熱弁を奮うことの出来る才能を持っておられる能弁な方である。
「風立ちぬ」ロシア語訳が出た! - K.Murano
2025/08/05 (Tue) 12:17:20
堀辰雄(1904-1953)の作品集『風立ちぬ』(Ветер крепчает)がモスクワの大手の版元「アーズブカ」社から刊行された(日本語からのロシア語訳。ハードカバー、416頁)。
訳者は近年ネット上で複数の日本人現役作家の短編小説のロシア語訳を紹介してきた新進の日本文学翻訳家エカテリナ・ユジナ。
ウクライナでの戦火がすでに3年半近くも止まない昨今(2014年から数えればもう10年を越えている)、この本はロシア連邦内外のロシア語話者にどう読まれるのだろうか。
とりあえず目次(の和訳)を挙げておく(作品13編)。(現物は未入手。すべて版元や以下のサイトによる情報。
https://www.ozon.ru/product/veter-krepchaet-1995104916/?__rr=1&abt_att=1&origin_referer=www.google.com)
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風景/ルウベンスの戯画/不器用な天使/死の素描/水族館/鼠/窓/聖家族/馬車を待つ間/麦藁帽子/風立ちぬ/楡の家/菜穂子。
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現本の裏表紙に刷り込まれたキャッチフレーズは以下。
「人生の美しさを洗練された文章で表現」「有名なアニメ(宮崎駿「風立ちぬ」)の原典」「クラシックな日本人画家(複数)の挿絵」「大多数の作品が初のロシア語訳」「巻末に訳者による論文と注」
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さらに版元やネット書店のサイトでの紹介文では、堀辰雄が芥川龍之介の「弟子」であり「後継者」であること、川端康成が評価していたことが強調されている。
上記サイトを見ると本書の表紙の図柄は宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」のポスターのそれ(女の子が草原でキャンバスに向かっている)と瓜二つである。
あのアニメ映画がなかったら、このロシア語訳の本も生まれなかった?
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付記: 上記ロシア語版「風立ちぬ」収録作品の日本語オリジナルはすべてネット上の「青空文庫」で読むことができる。収録13点のうち半分近くは新潮文庫や角川文庫にも収録されていない珍しいものだ。訳者ユジナの「好み」が出ている、ということだろうか。
Re: 「風立ちぬ」の世界を吹く「風」、吹かない「風」! - K.Murano
2025/08/10 (Sun) 22:39:10
ロシア語訳が出たということで刺激を受けて久々に堀辰雄(1904-1953)の作品を読んでみた。
2024年刊角川文庫の『風立ちぬ』(表題作の他に「美しい村」「麦藁帽子」「旅の絵」「鳥料理」を収録)と2020年刊新潮文庫の『大和路・信濃路』(表題作以外に数編の随筆・エッセイの類いを収録)を買ったのだ。どちらも初版(前者は1950年刊、後者は1955年刊)以降すごく「刷」を重ねている。両社のロングセラーの一つと言える。
上記の前者の巻末には以下の人達が文章を寄せている。丸岡明(1907-1968)、河上徹太郎(1902-1980)、矢内原伊作(1918-1989)、柴田翔(1935-)、堀多恵子(1913-2010)。
どれも(私には)読み応えがあったが、ちょっと不満だったのは、これらの人達だったら肌で知っていたであろう、昭和期の結核患者への社会的偏見・差別についてまるで言及していない、という点だ。
「風立ちぬ」にはそれを暗示するような場面が出てくる。以下、引用しておきたい。上記の文庫の162頁から。
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汽車は、いかにも山麓(さんろく)らしい、物置小屋と大してかわらない小さな駅に停車した。駅には、高原療養所の印のついた法被(はっぴ)を着た、年とった、小使いが一人、私たちを迎えに来ていた。
駅の前に待たせてあった、古い、小さな自動車のところまで、私は節子を腕で支えるようにして行った。私の腕の中で、彼女がすこしよろめくようになったのを感じたが、私はそれには気づかないようなふりをした。
「疲れたろうね?」
「そんなでもないわ」
私たちと一緒に降りた数人の土地の者らしい人々が、そういう私たちのまわりで何やら囁(ささや)き合っていたようであったが、私たちが自動車に乗り込んでいるうちに、いつのまにかその人々は他の村人たちに混じって見分けにくくなりながら、村のなかに消えていた。
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私は何も、「風立ちぬ」(1937年末に執筆を終える)のなかに「猥雑な東京の日常」(須賀敦子が或る書評で用いた表現)がちっとも出てこないからといって不満を鳴らそうとは思わない。高原のサナトリウムにも実際は当時の日本の生ける歴史(1931年9月の「満州事変」から数えるなら「15年戦争」進行中)の「風」が吹いていたのかもしれないが、「風立ちぬ」にそっちの「風」は無風状態であるからといって非難しようとは思わない。
ダヴィンチの「モナリザ」の背景には、あんな自然の風景ではなくてイタリアの街角の描写をもってこい、なんて類いの、ヤボなお角違いの要求をするつもりはない。
ただ、2020年1月以降の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行のあの雰囲気を少しは知る一人として、なんだか、以上のようなことも思った次第。(もちろん、コロナには今も警戒してますが。)
Re: 「風立ちぬ」高校時代 - 粕谷隆夫
2025/08/16 (Sat) 08:33:52
毎年お盆には女房の実家に滞在。今年は9~11日が連休、13~15日が盆休み。12日を有休にして、まるまる一週間休みにして、16日の土曜日に会社に来たら、村野氏の文章で洗顔でした。須賀敦子が登場。
遠い高校時代を思い出し、「堀辰雄といえば、高校時代の吉澤編集長!」。あの懐かしいプレゼント『堀辰雄集」。表紙の箱には何枚かの切手が張り付けていました。・・・しかし倉庫の書庫、事務棟2階の書庫にも無し。『あれ、自宅かな?』。峯雲先生からの、「パソコンにすべて記憶したから、すべて処分するぞ」との脅しで残存した全集本が出てきましたね。
今朝の日の出は、午前5時01分。夏の盛りも少なくなりました。
Re: 須賀が堀を論じたわけではないです - K.Murano
2025/08/16 (Sat) 21:07:40
須賀敦子の書評にあった文句を出したのは、たまたま古本屋で買って読んだ文庫本『本に読まれて』にこの文句があったので「ちょうどいいや」と思ってそうしたまでです。
この本は書評集というか読書エッセイ集というか、所収の文章はどれも「重量感」がある、と、通読中、印象を受けました。
軽はずみな引用だったかもしれません。
この文句、とにかく、須賀敦子が堀辰雄を論じた、ということは意味しません。お間違いなく。
Re: 付記(念のため) - K.Murano
2025/08/16 (Sat) 21:13:14
上記の「この文句」というのは、「猥雑な東京の日常」、です。